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<24>離婚成立(長かった月日) [過去から現在へ]

その後も、こうの態度はあやふやなままでしたので、これ以上、自分だけの力では、離婚話を進めることは無理かも知れないと思い、不本意ながら、母に「離婚したい」旨の報告をしました。母は、私の考えに対して、「自分の人生なんだから、子ども達のことだけを考えて、後は思うようにしなさい」と言ってくれました。離婚したい理由については、深くは追求することもありませんでした。後程、知ることになるのですが、実は上手くいっていないんじゃないのかと、何となく感じていたそうです。

こうに対して、母に相談したこと、母は「離婚には賛成の立場」であることを伝えました。どんどん逃げ場が無くなっていくことに、こうも精神的に追い詰められていたところはあるのでしょうが、それ以降、さらに私達に対して、冷たい態度を取るようになっていきました。

私は、てるや子ども達の支えもあり、何とか日々を生きていましたが、決して良い状態ではありませんでした。ベッドに横になっていても、天井が歪んで見えたり、天地がグルグルと回るような目眩が度々あり、吐き気がしたり倒れたりしていました。過呼吸症候群にもなっていたらしく、息が苦しくなり体中に血が回ってない感覚に陥り、そのまま意識が遠くなることもありました。

ある日の朝も、こうの態度に言い争いとなり、それによって具合が悪くなり、玄関の所で意識が朦朧としながら倒れ込みました。子ども達は「ママー!大丈夫ー!」と心配していましたが、こうは一瞥して「病院に行けよ」と冷たく言い放ち、私と子ども達だけを残して仕事に行ってしまいました。見ず知らずの人でも、誰かが倒れていたら救急車くらいは呼ぶでしょう。それなのに、「夫と父親の座」にしがみ付いているくせに、そこまで酷い対応しか出来ないのか、と情けない気分でした。私は、子どもが持ってきてくれたナイロン袋を使って(子どもの方が私への対処を分かっていました)、酸素の量を調整し、呼吸を整え、全身の脱力感を抱えながら這うようにしてベッドまで戻りました。

その頃、こうの行動に怪しいところがあったので、こうが眠っている間に、バッグの中身をこっそりと調べました。個人のプライバシーは守るべきだと思っていましたので、生まれて初めての行動に、多少の罪悪感を感じながら、一つ一つ調べていきました。電子手帳にも、携帯電話にもロックがかかっていましたが、バッグの中からは、女性からの手紙が数通出てきました。「離婚したくない!」と言い続けながら、こっそりと別の相手を探していたのです。それなら、きっちりと離婚してから、新しく遣り直せばいいのではないかという気持ちが込み上げてきました。バッグの中身を見たことは、こうには言いませんでしたが、離婚を早く進めるべきだと感じました。

私では、全く耳を貸さないので、こうには内緒で、私の母に離婚の説得に来てもらいました。こうは、帰宅時に母がいたので、かなり気まずそうでした。夕食が終わって、子ども達が寝てから、母はこうの説得を始めました。
「今のままでは、誰一人として幸せにはなれないこと」
「離婚したとしても、子ども達の父親には変わらないのだから、会うことが出来ること」
「娘は、一度決心したら、後に引かないことくらい分かっているだろうから、早くすっきりとして、お互いに新しい人生を踏み出した方がいいこと」
など、1時間以上に亘って、説得を続けてくれました。私に対しては、意地を張って耳を貸さなかったこうも、母の説得には、感じるところがあったようです。その日の夜、やっと離婚届にサインしてくれました。離婚を申し出てから、実に2年近い歳月が経っていました。こうを感情的にならせることなく、根気強く説得してくれた母には、本当に感謝しました。

私は、こうの気持ちが変わらないうちにと思い、翌日、急いで離婚届けを提出に行き、無事に受理されました。親権に関しても、私が引き取ることで話し合いがついていたので、家庭裁判所へも手続きに関しての相談に行きました。やっと、少しだけホッとしました。

離婚届が受理されると、本籍地(こうの実家になっていました)に、除籍の通知が届きます。突然、それが届いたことに驚いた姑と義姉が、こうを問い詰めたようです。それに対してこうは、私の母に説得されて離婚に応じたことを話した上に、そこまできても、こうは「本当は離婚したくなかった」というようなことを義姉達に対して言ったそうです。

それを知った義姉から、早速、電話がかかってきました。(かかるとは思っていましたが・・・。)
「ももさんは、私達に内緒で、上手く離婚出来たと思っているんだろうけど、こっちにも通知が届いているし、こうからも話を聞いたから、全部知っているのよ!」これが、義姉の第一声でした。
その後、義姉はネチネチと嫌味を言い続けました。そして、「離婚届は、こうの意思で書いたのではなく、ももさんとお義母さんに脅迫されて書いたものだから、無効にさせてもらう!」とまで言ってきました。そこまでして、誰かに何かいいことでもあるというのでしょうか?私は、話をしたくはありませんでしたが、その時の状況を説明し、「確かに、こうの自署であり、脅して手を持って書かせたとでも疑うのであれば、筆跡鑑定でも何でもすればいいでしょう。でも、そういう事実はないのだから、離婚を無効にすることは出来ませんよ」と返しました。

すると、義姉は、それまで「子ども達が可哀相だ」ということを盾にして、離婚を諦めさせようとしてきたにも関わらず、「別れるんなら、子ども達は3人とも、ももさんが引き取るんでしょうね。こっちの家に、子ども達を残していかれるのは迷惑だし、慰謝料も養育費も一円たりとも支払う気はないから、よく覚えておきなさいよ!」「じいちゃんもばあちゃんも(舅と姑も)同じ意見だから!」と言い出しました。同じ意見も何も、義姉のそれまでの行動パターンから考えると、義姉が姑達にもそう思わせるように、煽り立てたのでしょう。こうの家では、義姉と義姉のご主人の意見は、絶対的なものがありましたから、誰も反対意見などは言えなかったことでしょう。
結局は、子ども達が可愛いからでも、可哀相だからでもなく、『こう』のみが可愛くて、落ち込む弟を見ると私を憎く思い、私から離婚を切り出されたことが、世間体的にもかなり気に入らなかったのです。(こうから、離婚を申し出ていれば、義姉は私に離婚するように説得をしたことでしょう。)

こうの家族の非常識さは、十分に分かっているつもりでしたが、義姉の言葉には唖然としました。
ひーちゃんが生まれた時には、「初の内孫(本家の孫)だ」と喜び、ともちゃんに続いて、よしくんが生まれた時には、「本家の跡取りだ!」と自分達の物のような扱いでした。こうの実家へ行った時には、ミルクやオムツ交換の時以外は、私に触れさせない程だったのに、いざ別れるとなったら、思いっきり掌をひっくり返してきました。普通は、そこまで「本家の子ども」に執着している場合は、「あなたは出て行ってもいいけど、子ども達は残して行きなさい」というものだと思っていました。弟(息子)を捨てる私が憎いから、子ども達のことも憎くしか思えなかったのでしょう。

養育費などの件は別としても、義姉のこの発言は、私にとっては渡りに船でした。あんな家族の中に「たからもの」達を残して出ていくことなど、想像するのも嫌でした。その為に、2年近くも粘り強く、「親権は私が取る」という条件の離婚を、こうに説得し続けてきたのですから、義姉がそこまで言えば、こうは逆らえないので、親権の手続きもすんなりと進むであろうことに、逆にホッとしました。

でも、この電話の内容について、子どもに知られる訳にはいきません。それまで、好きだった祖父母にまで裏切られてしまったことを知ったら・・・また、どんなに傷つくかと思うと・・・「どうしたの?」と子ども達に訊ねられても、「離婚のことで文句言われちゃったよ~」と笑って誤魔化しました。

***追記(03.11. 23:10)***
確かに、離婚だけは無事に成立しました。
私も子ども達も、やっと、穏やかな自分達の生活が待っていると安心しきっていました。
でも、こうの家族達にとって、この離婚成立は屈辱以外の何物でもなく、素直に引き下がるような
人達ではなく、この後、予想も出来ないような展開へと移っていくのです。


<23>義姉の干渉・涙の誕生日 [過去から現在へ]

離婚話も1年以上続けているうちに、こうは、私が本気であることを認めざるを得なくなったらしく、私の離婚への意志について、義姉達に相談したようです。義姉達へは、姑からも相談が為されていたようでした。こうが義姉達に、離婚や今後の事について、相談するのはかまいませんが、何故、その前にこう自身が、私と二人での話し合いに応じようとしないのかと、一層、こうを見下してしまうようになりました。

それまでは、義姉から電話がある時は、大抵が、自分達に都合のいい頼み事がある時か、私への苦情がある時だけでした。
私は、その日、朝一番に心療内科を受診し、今までとは違う薬を貰って帰ってきていましたので、早速、その薬を飲もうとした時に義姉から電話がかかってきました。10時頃のことでした。

その日の義姉は、私のご機嫌取りをするかのように、ワザとらしい猫なで声で話しかけてきました。それまでの義姉の態度からは、想像も出来ないような話し方に驚くと共に、気味の悪さを感じました。それだけでも十分不愉快でしたが、義姉は、「離婚したいと言っているらしいけど、子ども達のためにも考え直して、こうとやり直してみる気にはなれない?」と優しい口調で訊ねてきました。私は、「絶対にやり直す気にはなれないから、私じゃなくて、こうを説得して欲しい」と答えました。それでも、義姉は「でもね、ももさん。子ども達のことを考えてご覧よ。両親が離婚することは、子ども達が可哀相だとは思わない?」と子ども達を盾に使って、私の離婚を諦めさせようと必死になっていました。義姉の話は、30分経っても1時間経っても終わらず、「薬を飲みたいから電話を切らせて欲しい」と何度も頼んでも、「分かったけど、でもちょっと聞いて・・・」と、義姉から電話を切ってくれる様子はありませんでした。

義姉の電話によって、ストレスもどんどん溜まってきてしまい、それに耐えられなくなった私は、「お義姉さんが、何と言おうと絶対に離婚させてもらいます!こうの我侭な態度や色々なことに疲れて、病気にまでなっているんですから。」と言うと、猫なで声から一転して、義姉は、いつもの義姉の態度に戻り、私のことを責め始めました。

「こうが我侭だって言うけど、男なんてみんなそんなものなんだから、そのくらい我慢出来なくてどうするの!」とか「こうがお金を使って生活が大変だって言うけど、ももさんがちゃんと管理すれば問題ないことじゃないの!」とか、次々と義姉の本音が出てきました。「こうは、私の意見など聞く耳を持たないし、気に入らないとすぐに家出をしてしまうのに、どうやって私が管理したり出来るんですか?こうの我侭は常識の範囲を超えていますので、我慢することなんて出来ません!」と反論すると、義姉は烈火のごとく怒り始め、私への苦情を次々と怒鳴りつけてきました。

その義姉の態度に、ついに私のイライラも限界に達し、「もう、結構です。お願いですから、電話を切って薬を飲ませて下さい」「私がどれだけ体調が悪いか、これだけ言っても、お義姉さんには分かってもらえないんですか」と、私の方も、段々と敵意剥き出しの声になっていきました。そういうことを繰り返し言い続ける私に対して、今これ以上話しても無理だと思ったのか、やっと義姉は電話を切ってくれました。やっと終わったと思いながら時計を見ると、11時半を過ぎていました。実に1時間半以上に亘る電話でした。

それから、急いで薬を飲んでも、私は怒りや悔しさからくるストレスから、体の震えが止まらなくなっていました。いつもなら、てるが寝ている時間に電話をかけることはありませんでしたが、この時ばかりは、すがり付くようにてるに電話をかけました(当時、準夜勤でしたので、昼は寝ていました)。電話の向こうにてるの声が聞こえてくると、私は声を上げて泣くばかりで、何を聞かれても暫くは説明することも出来ませんでした。一泣きしてからやっと事情を説明し、てるに「そんな電話なんて、今度から相手にせずに切ってしまえばいいよ」「ももが責められることじゃないよ」というようなことを言ってもらい、泣きたいだけ泣かせてもらって、やっと落ち着きました。

こうが仕事から帰ってきた時に、「お義姉さんから電話があったんだけど」ということを伝えました。こうは義姉のしたことを、ごく当たり前のように聞き流しました。私は、いつものように、こうと離婚について話し合おうとしましたが、その日も、こうは私の話が聞こえないかのような態度で、話し合いに応じようとはしませんでした。

長い期間、離婚話を続けていることは、子ども達にもいい影響は与える訳がありません。
ひーちゃんは、時々、学校に行きたがらない日が出てきましたし、友達と遊びに出かける回数や、友達を家に呼ぶことも減っていきました。
ともちゃんは、精神的に随分と不安定になってしまい、ちょっとのことで私や姉弟に当り散らしたり、喘息の発作も、自宅での吸入だけでは治まらず、点滴が必要な程、酷くなってしまっていました。
よしくんだけは、まだ十分な事情は分かっていなかったようでしたが、それでも楽しそうにはしゃぐことは、段々と減っていきました。
三人とも、一様に表情が硬くなっていくのを見るのは、とても辛いことでしたが、当時の私には、子ども達を抱きしめてあげることくらいしか出来ませんでした。そして、子ども達に十分に接してあげられない自分を随分と責めました。

そんな中で、私は誕生日を迎えました。家から5分くらいの所に、美味しいケーキ屋さんがあり、誕生日などのケーキはいつもそこで買っていました。誕生日ケーキの予約には、お姉ちゃん達が行ってくれました。受け取りには、「ママのお誕生日なんだから、よしくんが行く!」と言ってくれ、ケーキ屋さんが見える所まで一緒に行くと、「ママはここで待っててね」と言い、私の方を振り返り振り返りしながら受け取りに行ってきてくれました。ケーキ屋さんから出てくると、大事そうにケーキを持って、嬉しそうに急ぎ足で、私の方へ向かってくる息子の様子に涙が零れました。私の所まで到着すると「よし、ちゃんとお姉さんに紙(予約券)をはい!って渡して、ケーキ貰ったよ~!」「ママの所まで走って行きたかったけど、走っちゃうとケーキが壊れちゃうと思ったから、走るの我慢したんだよ」と、自慢そうな息子が誇らしく思え、「ありがとうね」と言いながら、ぎゅーっと抱きしめると、とっても素敵な笑顔を見せてくれました。

いくら離婚話中でも、子ども達が楽しみにしている誕生日くらいは、こうも多少の気配りはするだろうと期待しましたが、期待はあっさりと裏切られました。子ども達が楽しそうにしているのに対し、こうは無言で食事をし、ケーキも義務のように流し込んでいるようでした。よしくんは、こうに対して、ケーキを受け取ってきたことなどを誇らしげに自慢していたのに、こうは、「お使いが出来て偉かったね!」と、たった一言、褒めてあげることすらしてはくれませんでした。褒めてもらえると思って話したのに、父親の冷たい反応に、落ち込む息子が可哀相で仕方ありませんでした。誕生日用のシャンパンも、形だけでもと、こうにも注いであったのですが、一度も口を付けることなく、食事が終わると、さっさとTVの部屋へと閉じこもってしまいました。

夕食などの片付けを終えてから、家庭内別居していた私の部屋で、残ったシャンパンを一人で飲み干し、次にワインを開けて、飲みながらパソコンに向かっていると、珍しくその部屋に、こうがやって来ました。そして、私からワインの瓶を取り上げ、残っていたワインをキッチンに流して捨ててしまいました。ムッときた私が「何するのよー!自分は私の誕生日も子ども達の話しも無視したくせに、どうしてそういうことをしないといけないのよ!」とこうに怒ると、いきなり頬を平手打ちされました。こうもストレスが溜まっていたのでしょうが、どうして私がぶたれなくてはならないのかと頭にきて、それに対してこうを罵ると、こうはまた家出してしまいました。子ども達は、突然の出来事に三人とも泣きじゃくっていました。

せっかく、朝から子ども達がケーキの準備や誕生日の飾り付けもしてくれて、久しぶりに笑顔で誕生日を楽しんでいたのに、それが、帰宅後のこうの思いやりのない態度によって、哀しい涙の誕生日へと変わってしまいました。


<22>忘れていたモノ・・・(嬉しい涙) [過去から現在へ]

てるに対して、「仲のよい友達」以上の関係を、全く望まなかったと言えば嘘になります。でも、当時の私には、それ以上の関係を望む資格などはないと思っていましたし、せっかく築いた心地よい関係を壊したくはなかったので、『恋心』に気付いてしまった後も、出来うる限り平静を装いながら、てるとは『友達』として接していました。

ところが、その関係が変わる日は、突然やってきました。
いつもと同じように、何となく電話をしながらNBAのTV観戦をしていた時に、てるの声がいつもとは違う、とても真剣な感じに変わりました。「ん?どうかしたのかしら?」と思っていると、てるは少し間を置いてから、「好きだよ・・・」と呟きました。私は、兎に角、驚きました。てるからは、友達としか見られていないと思っていたので、想像したこともないくらい以外な言葉でした。でも、その言葉を聞いてしまうと自分の気持ちを抑えることが出来なくなってしまいました。そして、迷うことなく「私も・・・」と答えていました。(てるとネットで出会ってから一年弱が経った頃のことでした。)

電話の向こうで、てるも私からの返事に驚いている様子でした。
てるは、「自分は7つも年下だし、まだ離婚も成立していないから、告白しても無理だろうな」と思っていたそうです。それでも、「ダメだろうとは思っても、どうしても気持ちを抑えることが出来なかった。気持ちを伝えられるだけで良かったんだよ」と打ち明けられました。
私もてるも、「相手は自分のことを何とも思っていないだろう」と考えていましたので、二人で驚き合い、笑い合ってしまいました。

それから、遠距離恋愛が始まりました。
離婚話をしていたとはいえ、戸籍上は「妻」という立場でしたので、「不倫」と受け止められても仕方ありませんでしたが、それでも、私達の気持ちは深まるばかりでした。まるで、高校生の頃にでも、戻ったかのような純粋な気持ちで、てるを想っていました。でも、てるとの関係が、こうに知られてしまっては、新たな揉め事が起きるのは目に見えていましたし、離婚理由も「こうやこうの家族との関係の疲れ」から「私の不倫」へと摺りかえられてしまったことでしょう。ですので、細心の注意を払いながら、付き合っていきました。

支えてくれる人がいるという事実は、私を随分と救ってくれました。それまでは、自分の不調で手一杯で、私に心の余裕がなかったので、子ども達のことを「たからもの」だと思う気持ちに変わりはなくても、みんなを十分に抱きしめてあげることも、子ども達の話にゆっくりと耳を傾けてあげることも、あまり出来なくなってしまっていましたが、子ども達に対しても、少しずつ余裕を持って接することが出来るようになりました。

子ども達は、私の変化(特定の人と仲が良いこと)に何となく気付いていたようでしたが、そのことについて、特に私に問うこともなく、こうに対しては堅く口を閉じていました。それが、それまでの壊れていく私を見てきた、子ども達なりの思いやりだったのかもしれません。まだ小さな子ども達に、そこまで気を使わせてしまうような家庭環境しか作ってあげられなかったことは、今思い出しても胸に突き刺さるモノがあります。

てるは、アルコールが食事代わりだった私に、「ゼリー飲料(栄養補助食品)でいいから食事を摂って欲しい」と言いました。てるに心配ばかりかけていたので、せめて、そのくらいは努力しようと思い、それからは、ゼリー飲料が私の食事になりました。TVのCMでは、「10秒(!?)チャージ」などと流れていましたが、当時の私は、そのゼリー飲料を一つ飲むのに、15分から20分はかかっていました。「食事を摂る」という行為が苦痛であったことと、ゼリー飲料を飲むことにすら疲れる状態だったので、それでも精一杯でした。そんな私に、てるは、「時間をかけてでも、飲めるだけでいいんだよ」と言ってくれていたので、その頃の冷蔵庫には、多種のゼリー飲料が山のように入っていました。

アルコールについては、簡単に止められるものではありませんでしたが、てるはそれを責めることはありませんでした。ただ、「少しずつ飲む量を減らしていこうね」と言ってくれました。
他にも私の心がリラックス出来るようにと、私の好きな本や詩集を買い求めてきて、電話でそれらを読んでくれたり、笑い話をしてくれたりと、いつも温かい心で包み込んでくれました。

一度は閉じ込めていた『恋心』だったのだから、てるが想ってくれるだけで十分過ぎるはずでした。てるが他の子を好きになることがあれば、いつでも別れようとも思っていました。でも、付き合いが深まるにつれて、いつの間にか、弱い私は欲張りになっていました。
ある日の深夜、電話で色々と話しているうちに、「嘘でいいから、一度だけでいいから、プロポーズの言葉を聞きたい・・・」と涙ながらに言ってしまいました。無理なことを言っているのは承知の上でした。てるを苦しめることになるかもしれないとも思っていました。それでも、少しだけ『夢』を見たかったのです。(今にして思えば、遠距離で不安になっていたこともあったのでしょう。)

てるからは「俺は、嘘のプロポーズなんて出来ない」と深刻な声で返事がありました。「ごめんね・・・やっぱり無理だよね」と言いながら、更に涙が零れてきました。でも、てるの返事には、まだ続きがありました。「もも、今から言うことは嘘なんかじゃないから、ちゃんと聞くんだよ」と言うと、「今すぐ結婚することは無理だよね。でも、俺はいずれはそうしたいと思っているよ・・・(以下、ヒミツ)」と本当にプロポーズをしてくれたのです。

本物のプロポーズをしてもらえるなどとは思っていなかったので、一瞬、時間が止まった気がしました。それに対して、何も言葉は出てきませんでした。ただ、それまでの涙とは異なる涙が、次から次へと溢れてきました。瞬きをすることすら忘れていました。ポロポロと零れ続ける涙が、頬をつたうときに、とても温かかったことだけは鮮明に覚えています。てるからの愛情によって、私の心から消えてしまっていた、『嬉しくて泣けること』の幸せを思い出しました。『嬉しい涙』が溢れるてくることが、幸せでもあり、不思議な感覚でもあり・・・で、プロポーズに対して何て答えたのか覚えていませんでした。(この記事を書くにあたって、てるに訊ねると、「泣きながら、ありがとうって言ってくれたよ」と教えてくれました。)

このことは、翌日、あゆだけに伝えました。
他にも、私達が付き合っていることを知っていた友達もいましたが、どのように伝えればいいのか分からず、理解してもらえるかどうかも不安で、伝えるのが、随分と後日になってしまいました。
あゆは、「ももちゃんはいっぱい苦労したんだから、その分も、2人で幸せになりなよ」と、自分のことのように嬉しそうに祝福してくれました。


<21>心を軽くしてくれた友達 [過去から現在へ]

あゆと仲良くなるにつれて、少しずつお互いの悩みについても話し合えるようになっていき、あゆも離婚について話し合いをしているけれど、なかなか進展しない現状に悩んでいることなどを知りました。離婚を決意するずっと以前から、色々と悩むところがあったらしく、私と同じように「眠れない・アルコールが手放せない・・・」などの症状がありました。

あゆやてるとの関係も、それまでのネットを通してだけのものから、電話などでも頻繁に話しをするようになっていきました。趣味が同じだったこともありますが、相性が合うというのが一番大きかったのでしょう。あゆ、てるともに、まるで昔からの友達のように話が弾みました。そして、少しずつですが自分というものを出していけるようになり、「悩みを打ち明けてアドバイスを受け入れる」ということも出来るようになっていきました。そういった交友を持つことによって、それまで頑なだった私の心は、確実に少しずつ解け始めました。

決して意識してではありませんが、二人は、私が「自分の事を話せる」ようになるための、練習をさせてくれたように思います。そういう経緯があって、やっと近くの友達にも、現状について大まかな説明をしようと思えるようになりました。まずは、友達に電話を掛けることに勇気が要りました。電話が繋がると、初めの一言を切り出すのに、もっと勇気が要りました。実家の近くに住んでいる友は、心配して急いで顔を見に来てくれました。ちょっと離れた所に嫁いだ友は、「知り合いに同じ様な症状の人がいて、その人が掛かっている心療内科の先生が、結構いい先生らしいから、そこに掛かってみたらどう?」と受診を勧めてくれました。

同時期に、あゆとてるも、心療内科受診を勧めてくれていましたので、その友が紹介してくれた病院へ行ってみることにしました。行くことを決めたのはいいのですが、なかなか実行に移せずにいました。心療内科に偏見があったという訳ではなく、「病院へ行く」という行為自体が億劫で堪らなかったのです。その頃の私は、パソコンの前にいるか、ベッドの中で、電話をしたりボーっとしたりするのが、日常のほぼ全てでしたので、外に出かけるということが、もう苦痛となっていたのです。

それでも、友達が何度も勧めてくれるので、思い切って受診してみることにしました。
まず、初診時の簡単な項目記入があり、それ以外に、何ページにも及ぶアンケート(テスト!?)がありました。その時点で既に帰りたくなってしまいましたが、せっかく来たのだからとそれらに記入をし、看護師さんとの簡単な問診を済ませました。一仕事終えた気分になっていると、看護師さんから「診察まで2時間ほどかかりますから、他の所で待たれてて、帰ってこられたら、こちらへ声掛けしてくれればいいですよ」と言われ、気が遠くなる思いでした。病院という場所で2時間もじっと待つのは苦痛でしたので、電車で10分程の商店街へ時間潰しに行き、2時間後に病院へ戻りました。

それから、やっと診察が始まりました。担当医は、穏やかそうで物静かに話をしてくれる方でしたので、少し安心して、それまでの経緯や現状について、(時々、医師からの質問を受けながら)ゆっくりと話すことが出来ました。診断は、「鬱病でしょう」とのことでした。鬱病について、多少の知識はありましたし、自分でもそうじゃないかと思っているところがありましたので、診断に驚くことはありませんでしたが、医師から病名を聞いた時には、何となく不思議な気分でした。「鬱病は治る病気ですから、まずは軽めの薬から試していきましょう」ということで、薬を処方してもらい、帰りに書店で「病院で貰った薬が分かる本」のようなものを購入し帰宅しました。とても、長くて疲れた一日でした。

その頃から、私のてるへの感情に変化が見え始めました。何だか懐かしい感覚とでも言えばいいのでしょうか・・・「何となく気になる」「会話が楽しいだけでなく嬉しい」「ちょっと照れくさい」・・・久しぶりに感じた『恋』の気配でした。こんなにボロボロの状態でも、まだ、そういう感情を与えてくれたことを、神様に感謝しました。(いつもは余り信じていないのに、こういう時だけ信じてしまいます。)
でも、私は離婚問題で揉めている最中でしたし、幼少期からの積み重ねで鬱病に罹り、その上、3人の「たからもの」達の母親でした。7つも年下で、まだ20代のてるには、私がそういう感情であることは迷惑だと思いましたので、『恋心』は自分の中だけで大切に持っていようと心に決め、それ以降も、それまでと同様に接するように努めました。その時は、それだけで十分だと思っていました。

あゆとてる以外の友達も、私の心を軽くしていってくれました。前記事でもちょっとだけ書きましたが、改めて簡単に紹介させてもらいます。

『友1☆』は、NBA・F1・WGP(バイクレース)・バイクなど多岐に渡る共通の趣味がありましたので、それらの試合やレースを観戦しながら、『友1☆』のHPで「観戦チャット」というものをして楽しみました。趣味を共有し合うということ自体が、ネットを始めるまで余りありませんでしたので、とても楽しいことでした。『友1☆』は、電話をかけてきてくれたり、遊びに来てくれたりもしました。色んなバイクのカタログを沢山集めて送ってくれたり、レースを観戦に行った時の写真を送ってくれたり、本当によくしてくれました。

『友2☆』は、当時、沖縄在住だったので、キャンプに行った時などに、キレイな写真を沢山送ってくれました。「夕日の写真も欲しいなぁ」と伝えると、ちゃんと「夕日の写真」も撮って送ってくれるのです。チャットの遣り取りでも、メールでも、とても楽しい発言がいっぱいで、よく笑わせてもらいました。私は沖縄が大好きで、叶うのなら永住してもいいくらいに思っているので、『友2☆』の沖縄の話を聞くのが好きでした。有名な観光地ではなく、地元だからこその穴場なども教えてもらい、とてもワクワクし、さらに沖縄への憧れが募りました。

その他にも、今でも交流のある友達には、色々と楽しみを与えてもらっています。
☆スペイン大好きの友が、スペイン留学した時に買ってきてくれたお土産も素敵なものでしたし、お土産話も楽しませてもらいました。
☆自分のアパレル・ブランドを立ち上げて、頑張っている友もいます。何もないところから始めて、自分達でデザインとかを考えて、凄いなぁと思わされます。今年も購入させてもらいましたが、生地もデザインも素敵でした。(今度、ショップでも扱ってくれるようになったそうで、喜んでいました。)
☆資金運用に力を入れていて、色々とアドバイスしてくれる友もいます。その友とは、家族ぐるみの付き合いで、息子さんが1月で1歳になり、最近は「あひる歩き」が出来るようになったそうです。
☆私より、娘との年齢が近い友もいます。でも、何故か年齢のギャップをそこまで感じることなく、友達付き合いを続けています。(この友には、いつも囲碁でボロボロに負けますヾ(´▽`;))

ここに出てきた友達は、私がもう随分と長い間、忘れてしまっていた「笑うことの喜び」を思い出させてくれました。
落ち込んだ心も、友達と触れ合っている間だけは、とても軽くなっていました。
事情を余り知らない友もいましたが、それでも私が救われたことだけは確かです。
この場を借りて、友達に感謝の気持ちを贈らせてもらいます。

『みんな、今まで本当にありがとう!!そして、これからも宜しくね・・・。』


<20>更なる悩みと友の存在 [過去から現在へ]

こうは、離婚話から、相変わらず逃げ回る日々でした。
ある日には、私の説得に対してうなずいてみたりもしますが、数日経つと、また「やっぱり嫌だ」と言い出す有様でした。話を聞く振りだけしておけば、そのうちに私の気が変わるかもしれないと思うところがあったようです。それまで、買ってもらったことのない花束を買ってきたりもしましたが、そんな物は、冷え切った心に届く訳がなく、私は離婚の話を繰り返ししました。

そんな生活を送っていた頃に、また一つの問題が起こりました。
こうが、世話になった会社が人員整理をするので、そのうちの一人を引き受けて雇うと言い出したのです。贅沢を控えれば楽に暮らしていけるだけの収入はありましたが、人を雇う程の規模ではありませんでしたので、当然、反対しました。貯蓄も底をついている状態でしたし、離婚問題も進まない状況なのに、今の時期にどうしてそういう行動に出られるのかと思いました。

しかし、こうは、「その人を引き受けてくれれば、仕事を増やしてくれるように、親会社によく頼んでおくから」という言葉で丸め込まれていました。そんな話はただの綺麗事であって、実際に仕事が増えるかどうかの保証などどこにもないのだからと説得しましたが、こうは、世話になったのに、断ることは出来ないと言い張りました。そして、勝手に面接の日取りを決め、さっさと雇うことに決めてしまいました。規模の小さい自営業者にとって、1ヵ月に20万程度の給与と夏・冬のボーナス(寸志程度でしたが)を支払うことは、決して簡単なことではありません。こうには、金銭感覚というものが欠如しており、お金は何とかなるものだという思い込みを持っていました。(それまで、私が何とかしてきたことと、家の為の資金を手にしてしまったのが、余計に悪い影響を与えてしまったのでしょう。)

思った通り、特別、仕事の量が増えることはありませんでした。しかも、こうは、貯蓄が底をついたことで控えめにはなりましたが、それでも贅沢を好むことに変わりはありませんでした。収入が多い月はギリギリ何とかなるのですが、少ない月には、借り入れをしなければ給与が払えない状況でした。その借入金に対して、今まで同様、こうは全く関与しようとせず、仕方なく私が工面してきました。今にして思えば、何てバカなことをしていたのだろうと思いますが、離婚や経済状態に関して両親にすら相談出来ない状況下では、子ども達を連れて家を出るという決意も出来ず、その時の私には、そうしてでも生活していくしかありませんでした。

こうに借入金のことを言っても、解雇しようとはしてくれませんでした。こうでは、埒が明かないので、渋々、姑に電話をかけ、人事のことを説明し、収入では人件費は出ず、借入金が増える一方だから、解雇するように説得して欲しいと話ました。「生活が成り立たないから」と懇願しているのに、姑は「でも、息子が決めたことだから…」というような返答しかしません。私は、「お義母さんが、そういう考え方をされるのなら、そちらで人件費を負担して下さい」と頼みましたが、それに関しては、「私達は支払う気はない」と返ってきました。親子揃って無責任な対応に込み上げてくる怒りを抑えながら、姑に対して「今度こそ、離婚させてもらいますから、覚悟しておいて下さい」と伝え、電話を切りました。(結局、雇用から1年が経った頃に、雇っていた人が「別の職を探すから」と言って自分から辞めてくれるまで、借入金で給与を支払う生活が続きました。)

離婚問題が進まず、その上に更なるストレスが重なり、自分一人で抱え込むことが苦しくて堪らなくなっていた頃に、私やてるが利用していたサイトで、あゆと出会いました。あゆは、さっぱりとした明るい人という印象でした。

私はそれまで、親友にも離婚問題を含む家庭問題や体調などについて、一切の相談を出来ずにいました。育った環境から、弱みを見せられない性格であった上に、幸せそうな親友に、そういう話をしてはいけないように感じてしまっていました。(そのために、後になって「どうして、もっと早く相談してくれなかったのか」と、かえって親友を傷付けてしまったことを申し訳なく思っています。)

ところが、あゆに対しては、彼女が私と同じように眠れない状況であったことや、顔の見えないネットということもあり、初めて、少しだけ「自分のこと」について話してみることが出来ました。それは、現状のごく一部に過ぎませんでしたが、それでも私にしては、すごく勇気のいることでした。その頃には、てるとも随分と仲良くなっていましたので、趣味以外のことについても色々と話し合え、てるにも、あゆに話したことと同じ内容の悩みを打ち明けました。2人に話したことによって、それまで、私の体中に纏わり付いていたストレスの紐が、少しだけ綻んだ気がしました。てるは、私とあゆを、いつも和ませてくれました。いつしか、てるとあゆの2人は、私にとってかけがえのない存在となっていきました。

2人以外のネット関係の友達も、色々な話題で楽しませてくれました。他愛のない内容の電話をかけあったり、素敵な写真が撮れたからと送ってきてくれたり・・・そういうことが、当時の私には、随分と救いとなりました。


<19>ゆるがない離婚決意 [過去から現在へ]

私は、こうの言葉や態度で「愛されていない」ことを確信しました。
これ以上、悪循環を繰り返さないためにも、自分と子ども達を守るためにも、今度こそ「離婚」しかないと決意しました。

でも、離婚は私の意志だけで決めることは出来ません。こうは、私の結婚相手であったと共に、子ども達の父親には違いなかったからです。私は、こうが仕事に行っている間に、子ども達と「これからのこと」について話し合いました。

子ども達には、経済的な面など難しい話もしましたので、私からの説明を全部は理解出来なかったかもしれません。ただ、子ども達なりに思うところがあったようで、離婚については、「うん、いいよ」と、とてもあっさりと受け入れてくれました。それでも、母親から「離婚しようと思うんだけど、あなた達はどう思う?」と訊ねられることは、やはり複雑な気持ちであったことと思います。ひーちゃんとともちゃんは、「ママがこれ以上、辛そうにしているのを見たくないから、別れていいよ」「パパは、ママのことをちっとも大事にしてくれないもん」と言ってくれました。ただ一つだけ子ども達3人が共に望んだことは、「ママとパパが別れたら、ママと一緒に暮らしたい!」でした。そのことに関しては、最初から「夫にも父親にもなれない人」に「たからもの」達を残して出ていくことなど考えられなかったので、「みんな、ちゃんとママと一緒に暮らせるようにするから、心配しなくていいよ」と言うと、子ども達は一様に安心の表情を見せてくれました。

これで、私の離婚への決意はゆるがないものとなりました。
数日して、こうに「離婚して欲しい。子ども達は私が引き取る」と伝えました。こうは、ただ驚いていました。すぐには、私が何を言っているのか理解できない様子でした。こうからの返事は、「離婚する気などない」というものでした。何度、話をしても答えが変わることはありませんでした。

私はこうに訊ねました。「どうして離婚をしたくないのか」を。
こうから返ってきた言葉は、「子ども達と離れたくないし、一人になるのが寂しい」というものでした。そんな自分勝手な理由のために、私が体調を崩すまで耐え続け、その上で決意した「離婚」を拒否するというのです。しかも、私は離婚について切り出した時から、「子ども達の親権は私が持たせてもらうけれど、離婚しても、子ども達の父親であることに変わりはないのだから、いつでも子ども達と会っていいから」とずっと伝え続けていました。それなのに、こうは、「寂しいから」という理由だけを挙げ、一言も「みんなを愛しているから」とは言ってくれませんでした。それが分かっていたので自分から離婚を切り出したのですが、それでも、こうの言葉に、私の心は更に冷たく凍っていく気がしました。その後は、離婚の話になると、逃げられる(家出される)か無視されるかでした。(精神的に追い詰めらてしまっており、「家庭裁判所での協議離婚」などを考える余裕もありませんでした。それに、その手続きをしていたとしても、こうは協議からも逃げ回ったことでしょう。)

どこまでも、逃げることで済ませようとする、こうの態度によって、私の生活はより荒れたものとなっていきました。
食事どころではなく、ゼリー飲料(栄養補助食品)を飲むことすら苦痛となりました。
睡眠に関しては、一日に1時間眠ることすら難しくなっており、30分程のうたた寝しか出来ないことも増えていきました。そこまでになると、たまにふっと意識がなくなり、30分くらいして気が付くとパソコンのキーボードを叩いている途中で、そのキーボードの上に寝てしまっていることもありました。
アルコールも欠かせず、夜になると必ず手元にあり、朝まで飲み続けていましたので、食事ではなくアルコールで生きていたようなものでした。

持て余すほど時間がありすぎる私に、ささやかな楽しみを与えてくれたのは、皮肉にも、こうが導入したいと言った時に、「どうせ、すぐに飽きるんだから」と反対したインターネットでした。パソコン自体は仕事で使っていましたが、インターネットは手探りの状態でした。そこには、同じ趣味などに関して話し合える人達が待っていました。

私はプロフィールにも書いてありますが、「NBA」や「F1」などの観戦が好きです。それらについての意見や感想を遣り取りをすることによって、多少なりとも気持ちがほぐれました。ある人のNBAのサイトで、今でも交友が続いている大切な友を得ることが出来ました。そして、てるとも出会いました。てるは、サイトに現れる時間が私と重なることが多く、NBA以外の趣味の点でも多くの共通点があったので、話が弾みました。


<18>壊れていく心 [過去から現在へ]

こうは、家出をしたり、自分の気分だけで子ども達を怒鳴ったりしましたが、自分が寂しい時には、子ども達に擦り寄っていく人でした。自分が、子ども達に対して悪いことをした分を、抱きしめたり褒めたりという「愛情」ではなく、物や旅行など「お金」で機嫌を取ることで埋め合わせようとしました。子ども達は、欲しい物を買ってくれたり、行きたい所に連れて行ってくれたりすると、当然ですが喜びます。こうは、その子ども達の喜びを「父親に対する愛情」だと勘違いしていました。私には、子ども達に対して、お金で何とかしようという考え方が分かりませんでした。自分がその様に育てられたので、そういう愛情表現しか出来なかったのかもしれません。

また、こうの浪費癖は、どこまでも続くかのように思えました。毎月のようにテーマパークに出かけ、旅行にも派手にお金を使いました。欲しい物があるとすぐに買い求め、食事も贅沢な食材を好みました。こうの要望に応えている間は機嫌がいいのですが、少しでも否定的な発言をするとすぐに不機嫌になりました。「家計が成り立たない」と言っても何とかなると甘く考えているようで、聞く耳さえ持ってはくれませんでした。ある程度の収入はありましたが、それだけでこうの贅沢を支えていける訳が無く、仕方なく、家のために貰った資金を取り崩して、こうの欲求を満たしていました。また、家出をされてやりきれない思いをするくらいなら、家なんて、もうどうでもいいと思うようになっていました。

それでも、どんどんお金が減っていく通帳を見ることは、かなり気持ちが落ち込むことでした。「こうに贅沢をさせる為に、貰ったお金じゃないのに…」と何度も思いました。この件については、姑達に対しても、申し訳ない気持ちになりました。
この頃には、こうと共に生活していくことは、私にとって苦痛以外の何ものでもなくなっていました。冷め続ける夫婦関係と相変わらずの姑や義姉達による干渉。「この人やこの家族と、一生やっていくことは出来ない」と思うようになりました。

余りにも圧し掛かってくるストレスの重みと積み重ねてしまったストレスの重みで、私は体調を崩していきました。

私の心は、徐々に食事を受け付けなくなりました。子ども達の為に作ることは作りましたが、どうしてもそれを口にすることが出来ません。無理に食べようとすると吐き気がしました。グリーンサラダやゼリーなどなら、1日に一食くらいは食べられましたが、1ヶ月ほどの間に10Kgも体重が落ちてしまい、フラフラとするようになりました。
それと平行して、眠れなくなりました。一日に2,3時間も眠れれば、いい方でした。しかも、眠っている時間に誰かが起きていれば、誰が何をしていたかやTVの内容が分かるくらい浅い睡眠でした。
そして、アルコールが手放せなくなりました。昼間は、子ども達の手前もあり我慢していましたが、子ども達が眠ると朝までワインやビールを飲み明かしました。飲んでいる間は、多少なりとも、ストレスや嫌なことを忘れることが出来ました。

そのような状態では、仕事に出ることも出来なくなりました。
その上、買い物依存の症状も出てきました。デパートでもスーパーでもとにかく色々と買ってしまうのです。買うという行為に満足するので、買った後は興味を失いました。こうの欲しがる物を買うことにも、抵抗が無くなってしまっていました。どうせ、こうが浪費しているのだから、私も子ども達の洋服とかぐらいは買ってもいいだろう、と自分を納得させていましたが、後で冷静になると、買い物の袋を見て後悔することの繰り返しでした。

そんな状況になっても、こうが私のことを心配してくれることはありませんでした。
「食べる気がないから食べれないし、眠る気がないから眠れないんだ!」と責められる有様でした。
こうの顔を見ることすら嫌になり、家庭内別居が始まりました。こうは、家庭内別居に対して、「何の不満があるのか」とイライラしていましたが、もう、こうの気持ちなど、どうでもよくなっていました。

そこまで、気持ちが追い詰められても、私は、両親に何一つ相談することが出来ませんでした。両親の前では「しっかり者のいい子でいなければならない」という思いが、私の心の中に強く根付いてしまっていました。今になって思うと、何てバカな思い込みに縛られていたのだろうと思いますが、その頃は、家庭が上手くいっている振りをすることばかりに必死になっていました。実家へ行っても、経済的にも問題がなく、夫婦仲もいい振りをしていましたので、嘘をついている後ろめたさから、更に自分を追い詰めることになり、実家への足も遠のいていきました。

子ども達だけが心の支えでした。でも、そんな子ども達には申し訳ないのですが、子ども達がいてくれても、私は時々『孤独』を感じていました。


<17>求めるほどに遠ざかる幸せ [過去から現在へ]

とりあえず、家を購入することを諦めた私達は、手狭になった2LDKから3LDKのマンションへと引越しました。こちらは、都心と比べると、半額程度の家賃で済むのですが、それでも、その家賃や駐車場代の支払い分で、住宅ローンを払って余る程にかかります。こうさえ、はっきりと「自分達の家のことは、自分達で決めるから口出ししないで欲しい」と言ってくれていれば、義姉達も多少は譲歩してくれたかもしれませんし、私もこうのことを見直すことが出来たかもしれません。オートロックにTVドアフォン、警報装置(警備会社と提携)など、セキュリティー面がしっかりしている、広々としたマンションへの引越しでしたが、私には、現実から逃げているとしか思えませんでした。

こうは、引越しと同時に、車を2台買い替えました。その代金は、家の資金にと貰ったお金から支払いました。下取りしてもらっても、2台で300万以上はかかりました。「ああ、こうやって家の資金は無くなっていくんだろうなぁ」と思いましたが、こうは平気な顔をしていました。元々、こうは、「車は1回目の車検前に買い替えるもの」という意識(欲求)が強く、一度買った車に長く乗ろうなどという考えはありませんでした。ですので、十三年の結婚生活の間に、仕事の車も合わせると7台の新車に乗りました。また、私や子ども達が少しでも車にキズをつけると、本気で怒るので、「私達と車とどちらが大切なの」とよく喧嘩になりました。

姑との仲は、上辺だけは平穏を装っていましたが、お互いに受け入れられないところがありました。姑は、何かと私に対抗心を見せました。私の華道の免状や書道の表彰など(嫁入り道具として、姑に預かってもらっていました)、子育てをしながらも大学を出たことや免許を取って就職したことなど、私が頑張ってきたこと全てが気に入らなかったようです。姑は、自分の娘達より私の方が、色々な面で勝っていると思い込み、妬んでいたようでした。こうの実家に行った時に、お花がある方が玄関が明るくなると思い、買ってきて活けたりすると「○○ちゃんも出来るから、今度は○○ちゃんに頼もう」と言ったり、「お義母さん、それは、こうするとすごくいいんですって。」とさりげなく言っても、「ああ、それなら、○○ちゃんがこの間言ってたから知ってる。」と、あくまでも「自分の娘達の方が、何事においても知識が深いんだから、ももさんは黙っていればいいし、余計なことはしなくてもいい」という感じでした。義姉達も、家族や姉弟などの話し合いの時に、自分達のご主人はその話し合いの中に入れても、私を入れることは一度もありませんでした。それに対して、こうが、「ももだって家族なんだから、話し合いに入れてやって欲しい」と言ってくれることは、やっぱりありませんでした。それなのに、義姉達は、私に対し「ももさんは長男の嫁」なんだからと言い、雑用や面倒なことばかり押し付けられました。

新しいマンションでの生活が落ち着いてくると、こうの我儘は、さらに度を増して行きました。ある程度、まとまったお金が入ったことにより、気も大きくなってしまったのでしょう。新しい仕事用具が出ると「これを買わないと仕事にならない、もう仕事に行かない」などと言いました。それまで、別に仕事に支障があった訳ではありません。ただ新しくて便利な物を、いち早く手に入れたかっただけなのです。携帯電話などでもそうでした。携帯が今の様に安価で販売されているのではなく、昔はレンタルでしか利用出来なかった頃がありました。その頃から、こうは「携帯がないと仕事が出来ない」と言い、携帯を持っていました。そして、安価で新機種が手に入りやすくなると「新しい携帯じゃないと、仕事の人と連絡を取るのに困る」などと理由をつけ、すぐに新機種へと乗り換えていました。私が、それに反対すると、話し合おうとすることもなく、すぐに家出をしていました。反論出来る正当な理由や、反論する意気地がなかったので、家出という行為に逃げていたのでしょう。

この頃になると、家出の仕方も酷くなっていました。子ども達にも両親の状況が分かるようになっており、父親が「出て行く!」と言うと、子ども達は本気で心配しますので、こうに追いすがりながら玄関まで行き、「パパー!出て行かないでー!」と泣き叫ぶのです。それでも、こうは、自分にすがり付き、泣き叫ぶ子ども達を振り払って出て行きました。しかも、時には私に向かって「海に飛び込んで死んでやるからな!」と捨て台詞を残して出て行きました。私だけならまだしも、子ども達にまで「パパはもう死んでしまうかもしれないから」と言うのです。私は「情けなさと怒り」から、子ども達は「捨てられた寂しさ」からだったのでしょう…4人で抱き合って泣くことが何度もありました。

姑にも何度も現状を訴えましたが、「男なんてそんなものだから許してやって欲しい」で、話が終わってしまうのです。姑も舅も、孫よりも息子の方が大切だったらしく、「孫が泣くのは可哀相だから、息子を説得して何とかしてやろう」などということはありませんでし、そういう態度を取る息子を叱ることもありませんでした。こう自身も、ずっと甘やかされてきたので、自分の気が済むように出来るのが当然だと思っていたようです。

こうが家出をすると、こうの実家へ「そちらに、こうが行ってませんか」と電話したり、姑の方から「こうが来て泊まると言っているから」と電話がかかってくることもありました。その度に、私は、「こうの家はここなんだから、実家へ逃げずに帰ってくるように伝えて欲しい」と姑に言いましたが、姑がそれを聞き入れてくれることはありませんでした。電話口にこうを出すことすら拒否されました。そして、「疲れているようだから、今日はこっちに泊める。ももさんも女なんだから、もっと男のこうをたてて優しくしてやってくれないと…(溜め息)」と、いつも私が責められました。その上、姑にも義姉達にも、「女が良かったら男は変わっていくはずなのに、それが出来ないのは、ももさんに問題があるからだ」とまで言われました。私は、その度に、心の中で「その女っていうのは、自分達のことじゃないのか!」と思っていました。


<16>経営難、そして家の購入を考えた時 [過去から現在へ]

2年ほど順調だった自営業でしたが、専属契約で仕事をしていた会社から、いきなり仕事が回ってこなくなりました。何度、問い合わせても「ちょっと待って欲しい」というばかりで、一向に要領を得ません。契約の件があるので、次の取引先を探すことも出来ません。結局、曖昧なまま3ヶ月以上待たされた結果、「本社から人材を派遣してくることになったから」と、一方的に契約破棄を言い渡されました。私は、その件に関して、経営者として賠償請求をするべきだとこうに言いましたが、こうは「代表者」であるのにそういうことが苦手で、交渉すらしようとしませんでした。余りの不甲斐無さに、真剣に代表者変更の手続きをしようかと考えました。

その後、1年弱は、また単発の仕事程度しか取れず、貯蓄も底をつき、すでにある公庫の借入金の上に、運転資金などの借入金が増えていきました。しかも、こうは自分で借り入れ手続きに行こうとはしませんでした。嫌なことは全部、私に任せておいて、やっぱり自分は逃げるのです。先の見通しがつかず、疲れ果てていた頃に、大手の仕事を一手に握っている会社が提携先を募集していることを知り、幸い、そこに食い込むことが出来ました。私が資格を持っていたことと、こうは外面だけは良く、技術力も申し分なかったので、新しい取引先では重宝されました。それでも、借入金(その頃、数件分で400万近くありました)を返済しながらでは、やっとの生活でした。救いだったのは、その会社が、余程の事がない限り倒産などの心配がなく、経営の安定が望めたことでした。(大手というのが、誰もが加入しているN○○だったからです。)

その頃、こうの実家が所有する土地が、道幅拡大による区画整理の対象となり、それによって得たお金の一部が、家を建てる頭金として、こうに与えられました。私は、こうの両親に現状を説明し、家よりも、まずは借入金の返済をさせて欲しいと頼みました。こうの両親も、息子の仕事のために借り入れざるを得なかったものだったので、了解してくれました。お陰で返済の為に家計を遣り繰りして、頭を悩ませる必要も無くなり、借入金さえ無くなれば、生活はまた余裕のあるものとなりました。

借入金を返済しても建築資金が十分残っていたことと、新しい仕事に安定性が望めたことで、「家賃を払うよりは家を建てよう」ということになりました。それから私達は、将来的にはこうの両親の面倒を見ることも考えて、物件を探し始めました。

一軒目の物件は、3階建ての新古住宅でした。新築したものの完成前に転勤となり、一度も住むことなく売りに出された物件でした。一階に事務所と両親の部屋が取れましたし、何よりも「新古」なので、不動産会社も新しいうちに売りたいらしく、表示価格より値引きしてもいいということで、相場の3分の2以下の価格なのが魅力でした。早速、姑達に連絡すると、「一度見てからじゃないと…」と下の義姉夫婦と共に物件を見にきました。姑達も最初は「結構いい物件じゃないか」と言っていましたが、下の義姉が「人が建てた家なんて、きちんと設計されているかどうか分からない」と言い出し、あそこもここも気に入らないと口を出し始めると、姑達も「その通りだ」と意見を変え、別の所を探すようにと言い出しました。こうは、それをあっさりと聞き入れ、その物件は諦めることとなりました。

二軒目の物件は分譲地で、希望に合わせた家を建てられる所でした。この時も「見てからじゃないと…」となり、二人の義姉夫婦と姑達が押しかけて来ました。そして、分譲地の周りを見渡した後、「ここは、見える所に葬儀屋さんの倉庫があって縁起が悪いから駄目だ」と言われました。ここでも、姑達は、義姉達の言う通りだと言い、賛成してはくれませんでした。葬儀場が隣にあるというのならまだしも、離れた所に倉庫が見えるくらいで駄目だと言われたことに納得がいきませんでしたが、こうは、またしてもあっさりと聞き入れたのです。

三軒目の物件は、新興住宅地の建売住宅で、今まで見てきた中で一番良さそうな物件でした。多少、中心地からは遠いものの、だからこそ物件の値段が安めになっており、交通手段も近くにバス停がありましたので、特に不便はなさそうでした。両親用の和室もあり、子ども達それぞれに個室を与えてやることが出来るくらい部屋数が多く、駐車スペースも申し分なく、私もこうも気に入りました。その住宅地には、既に仮契約となっている物件が多く、義姉達が見に来る日まで待っていることが出来そうになかったので、「取り合えず、仮契約だけ済ませておいて、それから見に来てもらおう」ということになり、私達は、仮契約を済ませました。

その日のうちに、まず上の義姉に、仮契約をした物件があるから見に来て欲しい旨を電話で伝えると、物凄い勢いで私達を罵り始めました。こうが電話をしたのですが、義姉の声は電話の隣にいた私にも聞こえすぎる程に聞こえてきました。義姉は、「おまえ達は、両親を捨てるのか!」「誰がそっちに家を建てていいって言った!」「仮契約はももさんの入れ知恵だろう」などということを怒鳴り続けました。その物件以前に、姑達はこちらで家を持つことを理解してくれており、義姉達にも、こうの両親はこちらで面倒を見る意思があることを話していましたし、一緒に分譲地を見たりしていたので、突然の義姉の言い分の変化に私はついていけませんでした。想像でしかありませんが、その物件だけ、義姉達に相談前に仮契約を済ませたのが気に障ったのではないでしょうか。義姉は、まさにヒステリーとしか言い様のない状態でした。

こうは、その時にも、自分の意思を通すという態度に出ることはありませんでした。以前からそうでしたが、こうは姉達とそのご主人に意見されると、それ以上、自分の意見を述べたり抵抗するなどという態度を、一切取ることが出来ない人でした。私達の生活は、常に義姉達によってコントロールされているようなものでした。こんな大切な時ですら、その態度を変えられないこうが情けなくてたまりませんでした。また、余りにも理不尽な態度を取り続ける義姉達に、私の不満は募るばかりでした。


<15>ほのかな希望と新しい命 [過去から現在へ]

離婚騒動があってから暫くは、こうも多少の気は使っていたようです。でも、それもほんの短い期間でした。真面目に勤めに行っているなぁと思っていた矢先、「自分の技術を生かして自営業を始めたい」と言い出しました。人の下で働くより、独立してやってみたいと思ったそうです。しかし、私は幼い頃に、父が自営業を立ち上げた時の両親の苦労を見てきていましたので、「軌道に乗せて、得意先を確保し、信頼を得るまでの大変さ」「両親の多忙で、子ども達がどんなに寂しい思いをするか」をこうに話ましたが、こうは、「何とかなる!」とまた妙な自信を持っていました。「とにかく、やっと生活が落ち着いたところだし、根回ししてから始めても遅くはないんだから」と説得しました。

でも、私の説得は、こうには全く届いていませんでした。ある日、仕事から帰ってくると、「今日、会社辞めてきたから」とあっさりと言うのです。まだ、何の目途も立っているわけでもなく、自営業を始める資金も機材も何もない状態なのに、こうは平気な顔をして言うのです。私は、先のことを考えると気が重くなるばかりでした。

次の私の仕事の休日に、こうの実家へと行きました。こうは、最初から、開業資金を親に頼る考えだったようです。「どうして、貯蓄をしてから…という考えが出来ないんだろう」と、私一人が頭を悩ませました。こうの両親は、「こうがもう会社を辞めていること」「どうしても自分の力を試してみたいこと」などを聞き、あっさりと開業資金を出してくれました。私や弟妹は、「親兄弟であっても、お金の面では当てにしなくて済むように、自立しなさい」と教えられていましたので、理解出来ないものがありました。(でも、先行きの見えない所にお金を貸してくれる所などはないので、有難かったのも事実です。)

反対したことであれ、動き始めたものは仕方ありません。こうには車両や機材の手配などを任せ、私は商工会議所など手続き関係に走り回り、無事に条件だけは整いました。こうは自分が言い出したことでしたので、積極的に営業活動をしていましたが、最初は単発の仕事ばかりでした。暫くしてやっと、継続しての仕事が得られた時、人件費をかける訳にはいかないので、仕方なく研究センターを辞めて、自営業の手伝いをしなければならなくなりました。ここでも、私の意志と関係なく、望まぬ道を歩まざるを得ませんでした。

それまで、関わったことのない世界に戸惑いました。しかし、のんびりとしていられる余裕などないので、急いで仕事を覚え、同時に国家資格を取るところから始めました。こうは資格を持っていませんでしたので、仕事を請ける上で急いで取る必要がありました。
幸いにも、その頃、子ども達が通っていた保育園は、夜10時までの夜間延長保育があり、夕食も食べさせてくれましたので、仕事が遅くなる時には、とても助かりました。でも、子ども達からすると、朝起きた時と、連れて帰って寝る前だけしか、親の顔を見られないことが頻繁にあるなんて、いい訳がありません。子ども達は、当然、寂しかったらしく、日曜日には一日中べったりとくっついて、トイレに行く時くらいしか離れませんでした。少し早く迎えに行ってあげられた日には、満面の笑みで駆け寄ってくる子ども達が愛おしくてたまらず、同時に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

自営業の規模自体が大きいものではなく、専属で仕事を回してもらえる得意先も取れ、比較的早く軌道に乗せることが出来ました。こうの両親からの資金は、開業時に使い果たしていましたので、その後、必要になった資金は、公庫で借り入れをしました。その頃には、公庫の支払いをしても、ゆったりと生活が出来るまでになっていました。自営業が上手くいっていることで、こうの機嫌が良い日も増えました。仕事に慣れてくると、子ども達の迎えも、私がこうより一足早く帰宅して、早めに行ける日が増えていきました。

もしかしたら、このまま結婚生活も上手くいくかもしれないという、ほのかな希望を持つようになっていました。この時が、十年以上に亘った結婚生活の中で、最も穏やかで幸せな時期だったように思います。

そして、その頃、お腹の中に新しい命が宿っていることが分かりました。こうの両親は特に、「今度こそ、跡取りになる男の子が欲しい」などと勝手なことを言っていましたが、私は、どちらでも生まれてきてくれるだけで満足でした。ところが、妊娠3ヶ月頃に、ともちゃんが複雑性発熱性痙攣で救急車で運ばれ、点滴をしても痙攣は中々治まらず、そのまま入院することになりました。入院から4日ほど経った頃、私は看病の疲れからか出血してしまいました。幸い、同じ病院の産科にかかっていましたので、急いで産科の予約を入れてもらい、ともちゃんを看護師さんに預けて受診しました。診断は、切迫流産でした。流産しない為には、服薬と安静しかないと言われましたが、今、病気になっている子の看病の方が大切でしたので、処方された薬を飲み、お腹の子どもの生命力にかけるしかありませんでした。私に出来ることは、お腹の子が頑張ってくれるように祈ることだけでした。

翌年の初夏に、「たからものboy」のよしくんが、無事に生まれてきてくれました。一時は、もう駄目かもしれないと思っただけに、まずはホッとしました。喜びはその後で、込み上げてきました。
よしくんの誕生で、「たからもの」達が揃いました。夫婦生活は苦悩ばかりでしたが、「たからもの」達が私のところに生まれてきてくれたことだけは、唯一の幸せでした。


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